岩村田祇園祭の歴史 | 佐久鯉元祖/佐久ホテル/天然温泉

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2015.07.17

岩村田祇園祭の歴史

佐久ホテル(篠澤家)伝来の古文書、伝承より 岩村田「祇園祭」略史

年号  西暦  月 日  岩村田【割本職】篠澤家(現佐久ホテル)古文書等より抜粋



応永五  一三九八       大井安大夫源光矩が尾張の津島神社より祇園を岩村田に迎える。祭神は仏教神で厄病除の牛頭天王(ごづてんのう)。伝説では大井城の舟姫が自分の獅子顔① を気にして七月十七日に入水② しかし死の直前に自分の命と引替に当地に流行する疫病③ 撲滅を神に祈ったので加護により白鷺④ になり疫病も消滅したと言う。④は今も御舟飾に造型が安置される。②の姫の入水場付近に獅子岩(岩面が姫の顔に見えると言う)と御舟石(七月十七日深夜に石が揺れ泣くと言う)と御舟淵があり、姫がていた物が流れついた場所をツネギと言う。姫の遺体は立石という石になった。②の入水場は代々篠澤家の所有となっている。③疫病封じには荒宿のみこしの下をくぐると良いと言う。④白鷺の飾を収納する蔵のある小路を鷺小路と呼ぶ。※祇園祭の起源については多くの所説あり。

正長元 一四二八 十一     望月城の望月河内守滋野朝臣光尚克が大井城客将として岩村田の今宿に招かれ、根々井村全部と岩村田村、山浦村一部を拝領。息子の望月左京佐光包が後花園天皇勅使を接待し宮中より篠澤姓とササザワの読みを賜る。
永禄年間一五五八~       戦国動乱で祇園祭中断。緊急時、祇園御神体を篠澤家で保管。■篠澤信重が信玄公接待し礼状と神事用冠拝領。両方現存

永年間一六二八~        七十年年ぶりに祇園祭復活。七月十七日の姫の命日に祭礼を行うようになる。※現在は土、日に行う。

寛文元 一六六一 六  十八  御舟飾(オフネカザリ)に記されている年号。■慶長十八年仙石秀久祇園祭料寄進。■元和元年仙石忠政祇園祭料寄進。
同             岩村田祇園祭(以下祇園祭)盛んになり“東信第一ノ祭礼”と評判になった。また祭では「神馬、獅子、武者、屋台、御舟飾、天狗面、天王神輿、山車、騎馬、花車、踊衆、子供練りが華やかに繰り出したという。■祇園社建立

延宝八 一六八〇 正      四年前の六月四日に町内神主役人より町内神主より西尾隠岐守へ差し上げた「祇園祭礼」の写し  篠澤家蔵天和二 八二   天和二 一六八二        祇園祭でもめごとあり、隠居篠澤良重より息子の尚包へ申し送り状 篠澤家蔵

元禄三 一六九〇 二      今年も祇園祭を例年通り行いたい。 篠澤家蔵
同             岩村田の祇園祭と近津神社の祭礼料が欲しい  岩村田、長土呂役人より岩村田代官大田作之進宛   篠澤家蔵   

元禄十 一九九七      六 岩村田の各町で祇園の御舟や踊りの習い場を決めることまた祇園祭礼、踊り、踊り場詳細書が完成した篠澤家蔵

宝永二 一七〇五        祇園の祭や踊りが一日で終わらなかったので以後、一日で終わるように取り締まりを願う 役人より役所へ 篠澤家蔵

宝永四 一七〇七 七  五   祇園祭の資金の金五百が滞ったので江戸の寺社奉行所へ出頭せよ    篠澤家蔵
  同      同日     神社への納金は以後は遅らせないとの誓約書  丸山小大夫より小木左内宛   篠澤家蔵
  五 一七〇八 正  十二  岩村田若宮八幡宮と田ノ口新海神社の両社人、神官免許拝受のため上京したいので添え状発行を願いたい神主より篠澤家蔵

正徳五 一七一五 六  十七  祇園祭御舟式次第書が町内名主年寄によって完成したので役所へ提出  篠澤家蔵
享保二 一七一六 六  十   祇園祭での喧嘩の件、荒町が今宿を訴える  篠澤家蔵。同年十二月「祇園為替取替証文」    篠澤家蔵
            同日  祇園祭での喧嘩の件、今宿が詫びただけでは困る  大町の喜右エ門より荒町宛  篠澤家蔵
            十九  祇園祭での喧嘩の件で荒町喜佐衛門より詫びられたが迷惑だ  篠澤家蔵
  五 一七二〇        「祇園祭礼出入書」  祇園祭での喧嘩騒動の様子について  四通  篠澤家蔵
         正      祇園祭での喧嘩の件にて名主二名がお召しになり、名主退職   篠澤家蔵
         同      右の件で名主佐五右衛門と喜右エ門をどうか再任させて欲しい  久太夫ほか四名より役所宛  篠澤家蔵
         同      両名の再任願う岩村田の百姓百二十五名連印「責任はわれら百姓にあり」百姓百二十五名より役所宛 篠澤家蔵
         同      両名の再任許可が出た直後両名病死し次代佐五右衛門と貞之助が名主になる  篠澤家蔵
        五 一    篠澤包淑、神主免状拝受し現物が現存する。包淑の使用した祝詞類、神具類も現存。
         同      祇園祭の家元たる津島神社(愛知)の東都慎信より祇園牛頭天王(ギオンゴヅテンノウ)の御神軸を賜わる。以来現在までこの軸を祇園祭の時だけ佐久ホテルにて祀っている篠澤家家宝。        ■享保十四年領主内藤家神輿寄進。
二十 一七三五 五 七   祇園祭礼の踊りは一日では終わらないが、今年からは早めに終了したい 役所(岩村田藩)宛 篠澤家蔵
元文二 一七三七 六 十七   今年こそは祇園の祭や踊りは一日で終了したいと思う 役所宛  篠澤家蔵

寛保元 一七四一 七      今年も祇園祭は規則通り行うことを制約する 荒町 大町 名主     篠澤家蔵
  二 一七四二 五      祇園の祭りは乱れなきように注意しなさい  役所より  篠澤家蔵

延享三 一七四六 正 六    伊勢神宮より福島鳥羽大夫神官みえて鯉料理にてもてなす 献立表篠澤家現存

宝暦七 一七五七 六      祇園祭礼、神輿、御舟飾、土屋家由来書等の覚書を名主年寄連名で作成  篠澤家蔵
 七 六    「御舟由来書」が完成した   篠澤家蔵
         九 二六   岩村田住吉神社の樹を無断で伐採した訴え状  神主より名主へ   篠澤家蔵         
  十 一七六〇 四      殿様の無尽積立金がまだ届かないので当方で立て替えておきます  役所宛  篠澤家蔵
  十一一七六一 二      岩村田若宮八幡宮に預け置いた分を対馬神主に取り上げられては、まかないに迷惑する 名主より役所宛 篠澤家蔵
         十      祇園祭での喧嘩の件、調査のため氏子を取り調べる 役所より  篠澤家蔵
         十二     若宮八幡祇園用米のうち三俵を名主に取らせる。一方住吉神社の樹は無断伐採せぬ様 柏原神主より寺社奉行へ 篠澤家蔵

安永元 一七七二 十一     篠澤家へ伊勢神宮の神官で歌人の杉木宗太夫逗留し「花は雨に散るともしらて啼く蛙」の句を賜わる 石碑、句軸あり
  五 一七七六 六  五   祇園祭狂言の件で荒宿と下宿が異論となり公裁にて祇園祭中止となったが殿様在村中にて和解成立祇園祭挙行 篠澤家蔵

天明元 一七八一 閏五     祇園神事に猿久保村と横根村が立ち入り、争いとなるが和解成立する  篠澤家蔵
  四 一七八四 四  十一  若宮八幡宮に積立金二百三十八両あり  神主より名主宛  篠澤家蔵
  八 一七八九 十  十五  当家に向神主が来宅するのでお世話をお願いしたい  西村八郎太夫より篠澤佐五右衛門宛  篠澤家蔵
  同             神主の福島鳥羽大夫は借用が多く蟄居閉門となり弟の兵助に地位をゆずった  酒井貢外より佐五右衛門宛
  同             福島鳥羽大夫弟兵助から相続の祝儀として金二百を頂いた礼状   篠澤家蔵

寛政十二一八〇〇 六  十三  年々祇園祭は華美になっているので古来より由来なきもの禁止する。練りの子供の絹布は禁止。町内練り物は手軽にせよ。
                みこしも禁止するが、御舟付の十一名には乗馬、大小帯刀、御神体立てを許可する。 役所より

文政十二一八二九 正  甲子  出雲大社より篠澤包吉が大黒御神軸拝領。百六十年後平成三年に出雲大社より篠澤家に階位授与

天保五 一八三四        天候不順疫病多発し城主内藤豊後守日本橋備前屋常五郎に命じ神輿奉製。二五名を派遣し神輿を佐久まで担ぐ。

天保十五一八四四        御舟飾の着物にこの年号と「縫箔屋辰次郎」の文字あり ※この着物の鯉の模様は津島神社の神饌にちなむ。
  同年            助子十六名を御神体巡幸役にする  篠澤家蔵
嘉永七 一八五五 六      祇園祭の取り締まり厳しくせよ。この他にもまだまだ申し渡し事がかずかずあり  役所(藩)より  篠澤家蔵
申    ?          祇園神明料、饌料借用証文   柏原神主より  篠澤家蔵
申    ?          六月十八日の祇園祭と九月二十二日の神明祭の飯料借用の件  神主と庄屋より両替商七左エ門宛  篠澤家蔵
巳  十            対馬神主が柏原神主と同じ墓にいれてくれと申し出があったがこれは断った  町職より役所宛  篠澤家蔵

文久年間一八六〇~       岩村田の祇園の本社たる津島神社から篠澤包隆が津島神楽図軸を拝領  当家家宝

明治元年一八六八        祇園祭の御祭神の牛頭天王が須佐之男命に変更される

明治二年一八六九 八 吉    篠澤豊太郎滋吉近らが願主となり御舟屋台を寄進。■明治天皇専用室造営に伴い「佐久ホテル」と命名される。

大正年間一九一二~       町内に電線が出現し御舟飾が移動式から固定式になる。真榊(桧)は小型化しリヤカーで童女がひくようになる。戦時中は人手不足にて牛にひかせたが今は男性がひいている。

大正九年 一九二〇 七     子供みこしが商工会の提案にて荒宿に誕生。次に稲荷町、やがて住吉相生町にも登場。

昭和五五 一九八〇 七     花園町区が鼻顔稲荷の下の湯川にて最後のみこし渡しを行う。昭和四十九年から本町で消防放水にて御水渡

昭和五八 一九八三 九 一   岩村田祇園祭が佐久市無形文化財に指定。。

平成十二 二〇〇一 七 十五  京都祇園八坂神社宮司岩村田祇園祭を見学され佐久ホテルにて御休憩

平成十三 二〇〇一 十一十三  伊勢神宮の神宮広報課篠澤家神道資料調査のため金鑽禰宜来館

平成二五 二〇一三 六      第一回の神輿三基合同宴会が佐久ホテルにて行われた。
篠澤家(佐久ホテル)は江戸時代より今日まで祇園祭礼、みこし御一行様等の御立寄処としてご愛顧頂いております。祇園祭当日は享保五年に津島神社より拝領した御神軸を奉斎し、昔から変らぬ料理と天茶をご提供させて頂きます。          佐久ホテル 当主

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