小諸城址懐古園紅葉情報(2015年11月14日) | 小諸城址 懐古園(かいこえん)

春の桜、秋の紅葉、動物園、遊園地、様々な記念館を有した城址公園

小諸城址 懐古園(かいこえん)

2015.11.14

小諸城址懐古園紅葉情報(2015年11月14日)

懐古園に降り注ぐ陽ざしはいつも、どこかのお城の王子様のように実にさわやかです。昨日、馬場の南側の斜面の淵に咲いている「季節外れの向日葵(ひまわり)」を撮影しようと、SBCのカメラマンの方が来てくださいました。この向日葵は誰かが植えたものではありません。自然に咲いた向日葵なのです。ちょうど日当たりの良いこの場所で日向ぼっこをするために、種子を飛ばして住処(すみか)としたのでしょう。

 

春になると馬場にはたんぽぽが咲き出します。綿帽子のような胞子に息をふっと吹きかけると、綿毛が無垢(むく)に微笑みながら遠くの町まで旅に出ます。それをまるで母親になったかのように静かに見守るのもよいものです。何気ない平凡な日常の出来事ですが、そんな些細な瞬間って心が落ち着きますよね。小さなたんぽぽの花の冠もまた、どこかのお城の王子様みたいです。緑の茂った風薫る丘の上で、決して着飾ることのないたんぽぽの純粋な微笑みを見つめていると、こんな寒い心の私にも春がやってきたのだなぁと、一緒に笑ってくれる人を探しに出たくなります。

 

春に咲きだすたんぽぽや、夏真っ盛りの時に風に揺れる向日葵ならよく見られる光景ですが、秋になって、しかも紅葉も終盤に差し掛かっているこの時期に、季節外れの向日葵が見られるとは、少し得した気分になりますね。

 

さて、今日は少し天候が崩れましたが、それでもいつもより多くのお客さんで懐古園はにぎやかでした。園内を見渡すと、少し枯れ始めたところもあれば、赤みがさらに増したところも部分的にあります。陽ざしの当たり方や枝の重なり方の違いによって、色づきの順番や濃淡がずいぶんと変わってくるものです。

 

また、本日は、寅さん会館の地階シアターにて、コモロ寅さんプロジェクト『いつもココロに寅さんを』(通称:ココトラ)の皆さんによる「寅さん全作フィルムで観よう会」が開催されました。「男はつらいよ」シリーズの第18作目「寅次郎純情詩集」がフィルムで上映されました。昔の映画館さながらの雰囲気で、会場も笑いの渦と哀愁の涙が共鳴し、皆さん、画面にくぎづけでした。10月10日に同場所で上映された前回の第17作目「寅次郎夕焼け小焼け」は、人情味に溢れた心温まる物語でしたが、本日の作品は、もの悲しさの中にも温かみのあるお話でした。人生とは、じぶんを目指して流れる川の、岸辺をけずる水音です。それは、長く曲がりくねった道を走れば走るほど、人生という限られた時間が「幸せ」や「悲しみ」と引きかえに減っていくという、一個の人間の無常なる運命です。大勢を振り向かせる人になんかならなくていい。たった一人の悩める人を笑顔にできたらそれでいいのです。今日の寅さんの映画もそうですが、「悲しいことがあるから、楽しいこともある」のではないでしょうか。ココトラの皆さんは、月に1日ずつ寅さんの映画のフィルム上映を開催されています。

 

「虎の威を借る狐」という故事成語があります。虎に捕まった狐がこう言いました。「自分は神様から百獣の王になるように命じられている。だからわたしを食べてはいけない。証拠を見せるからわたしの後ろに付いて来なさい。」と。本当はまわりの動物たちは狐の後ろにいる虎を怖がって逃げたのに、虎は動物たちが狐を怖がって逃げたと勘違いしたのです。このように、見せかけのものに騙されている、あるいは勘違いをしていることというのは、日常生活のなかで非常に多いのではないでしょうか。懐古園を歩いていると、そういった見せかけのしがらみから解放され、まわりの世界が開けてくるような気持ちがします。懐古園で出会った美しい風景が、いつか誇らしい思い出となる日がきっと来るでしょう。

 

最近、懐古園には年配の方が多くいらっしゃいます。これほど多くの方々が懐古園で同じ時間を共有しているというのは、考えてみれば、すごいことだと思います。それぞれ色々な事情を抱えて生きているのでしょう。懐古園を訪れた理由もそれぞれ違うのでしょう。昔のことわざに次のようなものがあります。「駕籠(かご)に乗る人担(かつ)ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人。」つまり、人の好みは実に様々であり、また、境遇によって人の生き方も様々であり、いろんな人々のつながりによって世の中は成り立っているということですね。一人一人、異なる太さの人生の年輪を重ねられています。そして、懐古園を歩かれている方々の様子を散見するに、皆さんとてもいい顔をされているのです。歳を重ねることに慣れはありません。その人が生きているその年齢は、人生で初めての年なのですから。誰もがドキドキしながら、古い衣をはぎながら、その歳を生きているのですね。懐古園を訪れれば、今までに出会ったことのないじぶんが見つかるかもしれません。

 

先日の昼下がり、恋を始めたばかりであろう若いお二人がもみじヶ丘の紅葉の樹々を見上げていました。適当な場所を見つけて、紅葉の野畑に腰をおろします。近くでは、名前も知らない小さな子どもが、夕映えの木の葉(このは)のような無邪気な笑顔でかけっこをしています。少しずつ変化する紅葉の景色に共感し、見るものすべてに二人は心を通わせています。日本人の「共感の心」というのは、古代の頃からずっと途切れることなく続いています。「同じものを見つめて同じ心境であること」が日本人にとっては美しく温かい関係となります。しかし、言葉というのは、交わせば交わすほど互いの違いが際立ってきます。実は、「互いに理解し合う」とは、「相手と同じ気持ちになること」ではありません。同じものを見ていても感じ方がこんなにも違うのかと、その違いを思い知らされること、それが本当の意味で他者を理解することなのではないでしょうか。つまり、二人が見ていた紅葉の光景は、似ているけれどそれぞれ少し違ったものとして認識されたはずなのです。ですが、「生きとし生けるものはみな美しい。」という、二人の率直なその心情が一つに重なった時の感動は言うまでもなく「温かい」のです。二人にとって、懐古園は夢を見るためにあるのであって、時代の矛先なんかまったく関係ないのですね。

 

日本人はわび、さびというのを古代から大切にしてきました。贅沢を旨とせず、足るを知りながら質素な生活を営むこと。それがわび、さびを身につけた日本人の美意識です。四季ごとに風景も様変わりし、それぞれ違った風情をもたらしてくれます。自然を慈(いつく)しみ、生まれ育った土地を大切にし、なおかつお天道様に感謝して、季節ごとに異なる自然の恵みを頂くことができます。四季があることは日本人にとって当たり前であることのように思いますが、考えてみれば、なんと素敵な自然の摂理なのでしょう。

 

当たり前であることが当たり前じゃなく思えてくる、当たり前であることは実は当たり前ではないということに気づかされる。それもまた懐古園の魅力のひとつなのではないでしょうか。

 

誰かを好きになることは、自分を好きになれる唯一の方法です。それは人であっても、ものであっても、自然であってもいいのです。懐古園を好きになって、心のよりどころをどうぞ見つけてください。

 

懐古園をあなたの足でどうぞ開拓してください。「開拓」の「拓」とは、「手偏」に「石」と書きます。原野に転がっている「石」を丁寧に「手」で取り除き、平野を広げるという意味があります。懐古園で、心のなかに広い野原を作ってください。



























 

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