軽井沢Story

避暑地としての軽井沢はいつから始まったのか?
意外と知られていない軽井沢の歴史をご紹介します。

江戸時代の軽井沢宿の様子や
普通の道に可愛い名前がついている理由もおわかりいただけます。

 

 

Karuizawa-Story飯盛女の軽井沢宿

 
 

なにもない浅間山のふもと、見渡すかぎりの火山灰地に軽井沢宿が生まれたのは元録7年、1694年のことだった。

江戸幕府の方針で江戸から京都まで69の宿場による中山道第18番目の宿場だった。

参勤交代の大名行列の宿、佐渡から金銀の御用運びの中継ぎ、あるいは飯盛女めあての旅人、遊客の受け皿として殷賑(いんしん)をきわめた。
「軽井沢狐の鳴かぬ日はあれど」
客の枕を務めた飯盛女が、毎晩嬉しく泣いていたということだろう。
「去るほどに恋も布団も軽井沢」
宿場の長さ、六町二十五間、名主・問屋各一、男592人、女803人の軽井沢宿はエロティシズムに充ちた宿場だった。
「二手橋でゆうべのあまと生き別れ」
いまでは味気ない普通の橋だが、江戸の朝もやに想いをはせて、この橋にたたずむのも一興だろう。

 

Karuizawa-Storyきりしたんの旧軽井沢

 
 

明治19年、カナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが信州布教の途中でこの地を訪れ、風と水とオゾンに感動してから、にわかに外国人が増え、夏のリゾートとして脚光をあびるようになった。

「娯楽を人に求めず、自然に求めよ」。といった彼らの清潔な生活観が、こんにちの”風俗のない軽井沢”成立におおいに役立っている。
彼らは、散歩と読書と昼寝、そして礼拝に時を過ごした。簡素な板張りのバンガローに住み、軽井沢の冷気を楽しんだ。

旧軽井沢の奥にあるショー記念礼拝堂、そしてショーさんの別荘第一号を尋ねると、宣教師たちが軽井沢に求めたものが浮かんでくる。
ささやかな小さな道に「ハッピーバレー・レーン」「フーガの径」「ロストボールレーン」「サナトリウム・レーン」などと愛称をつけ、なにもない軽井沢を愛した。

出入りの街の業者にまで、キリスト教を強制したのはひどく迷惑であったが、彼らは布教の使命を負ってアメリカやカナダから派遣されてきたのだから、いたしかたない側面もあった。

そこには100年前の外国人達のスローライフがあった。

 

Karuizawa-Story文士たちの旧軽井沢

 
 

かつて夏になると旧道の奥のほうがなんとなく騒がしかった。

中央線沿線文士や鎌倉文士たちが水車の小路のまえにあった旅館つるやに投宿し、短い夏の執筆生活を送った。
文士たちはつるやの二階に陣取り、窓を開け放してペンをとった。
出版社の原稿取りや別荘の文学少女たちも、どこからともなく集まってきた。
したの道から「おーい!塩名田へ鮎たべに行かんかー」。狐狸庵先生も誰かに向かって大きな声をあげていた。

大塚山のほうにすこし入ったところには室生犀星の別荘があった。簡素な小さな日本家屋だが、後輩の作家たちや、文学を志す若者たちが訪れて、軽井沢の梁山泊  であった。


犀星は全てのものが凍りつく冬の軽井沢をこよなく愛した。彼は生前、矢ヶ崎川二手橋のほとりに文学碑を建てた。
「我は張り詰めたる氷を愛す。斯る切なき思いを愛す。」
我はそれらの輝けるを見たり。斯る花にあらざる花を愛す。」

 

Karuizawa-Story軽井沢夫人の散歩道

 
 

軽井沢駅から旧道ロータリーを経由して草津まで行く軽便電車が廃止されたのは昭和37年だった。所得倍増の掛声とともに高級別荘地軽井沢が注目され、大衆文芸や歌謡曲・映画には「軽井沢夫人」と呼ばれる人妻が登場した。
美しい色香を備えたお金持ちの奥様方であった。

主人は財界人、週末に東京からやってくるが、ウィークディは不在なので、奥様方は暇をもてあましていた。そうした人妻を主役に、若き青年とのひと夏の恋をしたてたのが、映画「軽井沢夫人」であった。

軽井沢夫人の朝のお散歩コースは、きまって愛犬をつれた雲場池<別名 白鳥の湖>。その頃雲場池のとなりには雅叙園ホテルがあり、ロッヂに一夜を過ごした恋人たちの物憂げなそぞろ歩きと行き会ながら、軽井沢夫人は朝靄のなか霧に泳ぐ白鳥と共に、軽井沢の冷気を楽しんだ。夕食後、夜のお散歩道は旧道の銀座通り、ゆったりとした長いムームーに身をつつみ、夜間飛行の香りをまき散らしながら、ロータリーから、「ちもとのだんごや」当たりまで散歩した。そしてデートの舞台はお諏訪さまの森か、闇につつまれた矢ケ崎川のほとり「お気持ちの道」だった。水音に包まれ立ち止まったひとときに、青春の陶酔があった。